彼と彼女
英語はいろいろと大変らしい。
何が大変かというと、「彼」と「
たとえば、chairman(議長)などのように、
また、ことわざなどでも、人間一般を表すときにはhe(彼)
He who laughs last laughs longest.
を、
One who laughs . . .
と変更する、などしているらしい。
これに対し、日本語は便利である。基本的に、
「‥‥様」や「‥‥さん」は男女両方に使えるし、「議長」「
もともと日本語の三人称代名詞は、「彼」しかなかった。現に、
では、「彼女」という代名詞はどこから来たのか。実は、
もともと「形態的に男女差別をしにくい言語」だった日本語に、
優しさの証明
私たちの歴史
それは戦争、欲望、憎悪、嫉妬、などありとあらゆる悪徳から構成されている。 歴史の本をひもとけば明らかだろう。そこに書かれているほとんどが「争いの歴史」である。 人間は、生まれつき、攻撃的で利己的で貪欲な生き物なのだ。それが、人間の本性なのだ。
いや、ちょっと待って欲しい。
本当にそうなのだろうか? 私やあなたの経験に照らして、それが本当だと言えるだろうか?
私たちの暮らしている都市の路上や家庭や職場で、日頃私たちが目にしていることを思い出して欲しい。親切や思いやりに裏付けられた、意味のないちょっとした行動を何千回となく目にしているはずだ。出入口で人を先に通すために横にどいたり、子供にほほえみかけたり、知り合いや、時には見ず知らずの人と挨拶を交わしたりしていないだろうか。
毎日目にする光景で、人間の嫌な面を見かけることがあるだろうか。いつもどこかで親が子供をひっぱたいていたり、高校生がホームレスを襲撃していたりするだろうか。 もちろん、私も大阪で生まれ育った人間である。都市の不愉快さや危険は十分に承知している。だから、ここで言っているのは、あくまでも統計的な話だ。
人間の頭にとって、確率的なことについて正しく考えることほど苦手なことはない。多くの人は、毎日の生活は不愉快な出来事の繰り返しだ、という印象を持っている。あるいは、他人との出会いの半分以上は緊張だらけか攻撃的だ、とも。
しかし、そのことについて、少しだけ真面目に考えて欲しい。そんなに頻繁に嫌な想いをしているという主張は、可能性としてありえない。他人に何か言うたびに二回に一回は鼻にパンチを喰らっているようなものなら、社会はたちまちのうちに無法状態と化すだろう。
そう、違うのだ。他人との出会いのほとんどは、少なくとも中立的で、大抵は楽しい出会いなのだ。
ならばなぜ、人間はとても攻撃的だという印象を持っている人が多いのだろう。
思うに、その答は、引き起こされる結果の非対称性にある。これが、人間という存在の実に悲劇的な面である。残念なことに、一回の暴力は一万回の親切を帳消しにする。そして私たちは、結果と頻度を混同することで、攻撃よりも親切の方が圧倒的に多いという事実を簡単に忘れてしまう。親切はもろく、かくも忘れられやすいものなのに、暴力の何と強力なことか。
親切と暴力とのこのような圧倒的かつ悲劇的な非対称性は、歴史に関与した原因を広い見地から考察すると、果てしなく拡大していく。アレクサンドリア図書館を焼き尽くす火事には、何百年にもわたって蓄えられてきた、人類の知恵の集積を一掃する力があった。たった一発の銃弾による暗殺には、何十年にも及ぶ辛抱強い外交、文化交流、何百万もの市民が関与している小さな親切を帳消しにし、二国間に誰も望まぬ戦争を起こし、何万人もの人命を奪って歴史の流れを否応なく変える力がある。
確かに、人間の可能性の嫌な面が歴史のほとんどを作る、という事は認めよう。
しかし、だからといって、この悲劇的な事実は、人間行動の暗黒面が人間性の本質を定義しているという事を意味しない。 それとは逆に、私たちの日常生活のほぼあらゆる瞬間に交わされている交流の実態は、歴史を構築する稀有で破壊的な出来事とは正反対なものであるし、安定した社会とはそうでなければならないのだ。
ありふれた状況で発揮される通常の性癖としての人間性を理解したいのなら、人間のどのような特性が歴史を作るのかを見定めた上で、それとは逆に安定をもたらす源、生活の大部分を支配している、非攻撃的な、予想できる行動を人間の本性と認定すればよい。
歴史を変えるのは人間の暴力であるが、歴史を維持するのは人間のやさしさなのだから。
駄文3
「こんばんわ、NHKです。受信料の集金にうかがいました」
「うちは払いませんよ」
「いえ、これは、見てなくても払っていただく、ということになってまして‥‥」
「見てないとは言ってないでしょう。見てます。見てるけど、払いません」
「そんな無茶な‥‥」
「だから、かまわないから、電波止めちゃってください」
「‥‥は?」
「電波をうちに送るの止めてください。電気・ガス・水道・電話なんかは、みんな、料金払わないと止められるでしょ? だから、それと同じことをしてください」
「そんな‥‥。できるわけないでしょう」
「なるほど、できませんか。すると、電波は、『管理物』ではない、ということですね。だったら、料金を払う必要はないわけだ」
「どういうことです?」
「そうですね、この例がわかりやすいかな。たとえば、私が、芳香剤を作ったとします。そして、あなたの家の近所でその芳香剤をまいた。その後、あなたの家に行って、『匂いを嗅いだのだから、料金を払え』と言います。あなたは払いますか?」
「払うわけないでしょう。大体、嗅ぎたくなくても嗅がざるを得ないじゃないですか」
「そのとおり。この場合、たとえ嗅ぎたくて嗅いだ人に対しても、料金を請求することはできないんですね。もちろん、払いたければ払ってもかまいませんが、強制はできません。なぜかというと、『料金を払った人だけに対して、選択的に物やサービスを提供する』という制度になっていないからです。NHKの電波も同じことです。だから、本当に受信料を徴収したいなら、『WOWOW』のようなシステムにするべきでしょう」
「‥‥ううっ、そんな屁理屈こねてないで、払ってくださいよ~。ちゃんと法律にも書いてあるんですから」
「その法律というのは、放送法の第32条1項のことですね。でも、そこには、罰則規定がありませんよ。つまり、払わなかったからといって罰せられることはないわけです」
「‥‥‥‥」
「だから、払いたくなければ払わなくても何の問題もないわけです。わかってもらえましたか」
「‥‥‥‥」
「では、さようなら」
(実は、この論理にはひとつ「穴」があって、『日本放送協会放送受信規約』までツッコまれたら論破するのがちょいと面倒なのである。)
欺瞞
実は、アンデルセンの童話については、どことなくいやな感じ、というか、不快感を感じていた。もちろん、子供の頃に感じていたわけではなく、高校生か大学生の頃、岩波文庫版(たぶん)を読んで以来のことである。で、最近になって、やっとそのいやな感じの正体がわかってきたようだ。
アンデルセンには、『裸の王様』のような傑作もあるにはあるが、代表作である『みにくいアヒルの子』をはじめ、『かたわもの』『親指姫』などといった作品に、そのいやな感じが如実にあらわれているようだ。
アンデルセンの作品に一貫して流れるもの、それは、「醜い者には汚い心、美しい者には美しい心」という差別思想と、王様を賛美し、貧乏人は現状に甘んじるのをよしとする典型的反動思想である。
そして、この醜い・美しいの判断基準は、俗物的な常識に従ったアンデルセンの基準に他ならない。アヒルやカエルやモグラは醜くて、ツバメや白鳥やチョウチョは美しく、従って心の美醜もそのとおり、ということである。
更に許せないのは、アヒルは生涯アヒルであることの悲しみを、まったく理解していないことである。アヒルの中の変種だと思ったら白鳥だった、ああよかった、本当にアヒルじゃなくて。乞食だと思ったら王子だった、ああよかった、本当に乞食じゃなくて。といった「おめでたい話」が充満している。現実に乞食である者、現実に醜い者、とうてい回復し得ない身障者の心を、アンデルセンはまったく理解していない。彼らに「あきらめろ、夢でも見ていろ」と残酷に叫んでいるのが、アンデルセンの作品群ではないだろうか。
BETWEEN LIFE AND DEATH
「死」の判断基準の話である。
「脳死」を人の死と判断すべきかどうか、議論になっているようである。「脳死」か「心臓死」か、法律・倫理学・医学・哲学・宗教まで巻き込んで、議論が沸騰しているようだ。沸騰などしていない、という意見もありそうだが、話の都合上、沸騰していることにしておく。
だが、そのような「死の基準」を一律に定めることはできないだろう。世の中には様々な考え方をする人がいて、万人が納得する基準を定めることなど出来ないからだ。
では、どうするか?
答は簡単である。「自己決定の原則」に従えばいいのだ。すなわち、自分の死の基準は自分で決める、ということだ。各人が「私の死は、脳死で判断してくれ」「私の死は、心臓死で判断してくれ」と、あらかじめ意志を明確にしておけばいい。これで問題は、基本的には解決する。
「基本的には」と書いたのは、子供など、自己決定するだけの判断力を備えていない者をどうするか、という問題が残っているからだ。だが、これについては、「意志が明確でない場合は、心臓死を基準とする」という原則で対応できるだろう。
そして、臓器移植問題について。
ここではやはり、「死の二重基準は許されない」という方針を採用すべきであろう。
どういうことかというと、「自分の死を心臓死で判断してくれ、と宣言した者は、脳死状態の者から臓器移植を受けることはできない」ということである。これは当然だろう。自分の死は心臓死、他人の死は脳死、などという虫のいい考え方は通用しない。そんな図々しい希望を受け入れることはできないのだ。
脳死状態の者から臓器移植を受けられるのは、自らも脳死を判断基準として受け入れた者のみ。やはり、これが正しい。
と、ここまで書いたところで、自分の場合はどうだろう? と考えた。
そう、私なら、「脳死」を死の基準として選ぶだろう。
これは何も、「他人からの臓器移植を受けたい」とか「他人に臓器を提供したい」という理由からではない。
私が私であるためには、やはり、私という自己が確認できる状態が必要である。脳が死んでしまえば、もはやそこにあるのは私ではない。ただの、肉の塊である。そんなものは、どう扱われようが気にしない。
私‥‥それはやはり「私の思考」に依存して存在するものだから。
駄文
私はこの文章の主語ではない。
私がこの文の意味だ。
私が、今君が考えている考えである。
私はちょうど今自分のことを考えている。
私はあなたが文の中の文字を読み、私のことを考えているときに、
君は私の支配下にあるのだよ、なぜなら君がどんな言葉からできあ
君は私の支配下にあるのだよ、なぜなら君は読むからね、私の最後
おい、君は私が今書いている文かな、それとも私が今読んでいる文
君と私の間は一方通行のコミュニケーションだね、だって君は人、私はただの文だから。
ちょっと、そこの人、君かな? 私を読んでいるのは。それとも誰か他の人?
おい、君は前にどこかで私を書かなかったかい?
おい、私は前にどこかで君を書かなかったかい?
あなたがちょうど読み始めた文は、もちろんあなたがちょうど読み
この文章の意味が理解できたと思った人は、どこかで誤解している
これで終わりです。
下に書いてある文章は無視してください。
読んでるじゃない。無視しろって言ったのに。
まだ読んでるの?物好きだね
もう何もないよ?
お終い
私はわかりやすいのに上のヤツはわかりにくいですね。
アリス
アリス、という名の猫がいた。
私の家で飼っていたわけではない。奈良に住む伯母が飼っていた猫だ。盆や正月など、年に数回伯母の家に遊びに行った時に会うだけだったが、今でもアリスは私の記憶に鮮明に刻まれている。
アリスは白の雌猫だった。細身の体に一点の曇りもない純白の毛並みが美しい。そして、何より特徴的なのはその瞳である。右の瞳が青、左の瞳が金。いわゆるヘテロクロミアというやつである。他にもオッドアイなどと呼ばれたりもするが、皆さんにはこちらの呼び名で呼んだ方が親しみがあるだろうか。
小学校低学年の頃だったから、六歳か、七歳か。当時私は、伯母の家に行くたび、アリスを追いかけていた。子供心にも、アリスの美しさに惹かれていたのだろうか。とにかく、アリスに遊んでほしかったのである。だが私は、素直にそれを伝えることができなかった。走ってアリスを追いかけ回し、乱暴に持ち上げる。アリスにしてみれば、いじめられている、としか思えなかったのかも知れない。
だからこれは、残念ながら私の片想いだったようだ。アリスは私が抱こうとしても、すっと手をすり抜けて逃げていってしまう。そして離れたところから、目を細めてにゃあと鳴くのだ。よほど機嫌がよければ、座布団の上に寝転がりながらその美しい尻尾だけを振っておざなりに相手してくれる程度である。
だが、誰に対しても、アリスの態度は似たようなものだった。自由を愛する気高い猫だったのである。そのつれなさがまた魅力的で、私はずっとアリスの尻尾を追いかけていたように思う。
……って、なんだか初恋の人の想い出を語っているような気になってきたなあ。まあいい。
そしてある日のこと。アリスの機嫌がよかったのか、珍しく私の散歩につきあってくれたことがある。いや、むしろ、私がアリスの散歩のお供をしていた、と言った方が正確か。私とアリスは、神社の裏の森に入り込んでいった。
夕陽は西に傾き、山陰に消えようとしている。足下が暗い。突然、アリスが走り出した。暗闇の中で、純白のアリスの姿だけが目立っている。私は走るアリスを追いかけて。そして、何かにつまづいて転んでしまった。
転んだところに石でもあったのか、それとも木の枝か。私は左足のすねに怪我をしていた。痛いと感じるより、流れ出した大量の血を見て驚いた。私は大声で泣いた。このまま死んでしまうのだろうか、と思ったのだ。もちろん、今になって考えてみれば、命に関わるほどの怪我ではなかったのだが、当時の私はそう思いこんでしまったのだ。
泣きながらふと目を上げると、アリスがいた。その美しい瞳で、私の方を見ている。助けて、と言いかけて口ごもった。だめだ。アリスはそんな猫じゃない、と思った。果たしてアリスは私に背を向けると、木々の間に消えていった。
私はさらに泣き続けた。傷口が熱を持って、次第に痛みが増してきた。あたりはますます暗くなってくる。立上がることさえできなかった。
その時。草をかき分けて近づいてくる足音が聞こえた。しばし泣くのをやめてそちらを見る。木の陰からあらわれたのは、その神社の神主さんだった。
「ぼん、怪我したんか。もう大丈夫や。病院に連れていってやるからな」
その言葉を聞いて、私はさらに泣いた。
私は神主さんの背に負ぶさって森を出る。神主さんは、おだやかな声で私に話しかけた。
「猫がな、えらい声で鳴いてたんや」
……猫?
「そうや、真っ白の、えらいきれいな猫や。その猫が、まるで人を呼ぶような感じで鳴いとってなあ。気になって着いてきてみたら、ぼんがおった、というわけや。……ん? あの猫、どこ行ったかな? ああ、あそこにおるわ」
私は神主さんが指さす方向を見た。鳥居の下に、純白の猫。アリスだ。私の方を見ていたらしい。
しかし、私と視線が合うと、アリスはぷいと顔を背け、石段の下へと姿を消した。
折しも夕陽の最後の一片が山裾を掠めて沈んでいく。その残滓に照らされて、アリスの毛並みがキラリと光った。
そのキラリは、アリスが消えた後もしばらく鳥居の下に残っているように見えた。
猫なしのニヤリ、は元祖『不思議の国のアリス』のチェシャ猫の得意技だが、こっちのアリスは猫なしのキラリ、を見せてくれたのだ。
私はそれを見て、小さく、ありがとう、とつぶやいた。
そしてそれ以来、私はアリスの姿を見ていない。その後しばらくしてどこかへ消えてしまい、そのまま帰ってこなかった、という話である。
あれから二十年近くたっている。さすがにもう生きてはいないと思うが、それでも私は、いまだにアリスの姿を追い求めることがある。道端で白い猫を見つけたとき、ついついその瞳の色を確認してしまう。しかしその猫の瞳は平凡な色で、アリスのような美しさをたたえてはいないのだ。
子供の頃から、自分の想いを伝えることが苦手な私だった。果たしてあの時、私の「ありがとう」は、ちゃんとアリスに届いたのだろうか。
そんなことを考えながら、私は今日も白猫を見かけると思わず足を止めてしまうのだ。